しばらく前までは、デジタルカメラが普及すると、銀塩カメラは駆逐されるのではないかという警戒感が広がっていました。
まあ当然な話で実用の観点から見たら、デジカメのシステムは銀塩のシステムに比べて遙かに進んでいます。
第一、撮影した画像をすぐにチエックすることが可能ですし、その画像をメールアドレスを持っている相手なら世界中どこにでも即座に送ることができます。(まあ実際にはブロードバンドが完備していないとその有効性はないわけですが、これは理論上の話)
しかも、デジカメの最大の便利なポイントは画像をフォトショップなどで加工することが出来る点。
いえ、私の言う意味はかのスターリンが粛正した相手を、クレムリンの観閲式の台の上から消し去ってしまうような画像操作の意味ではなく、色温度がおかしいような不自然な画像の色合いを自然な色彩に近づけるという程度の意味ですけど、そういう自然な色合いを出す為に、私などは20歳の時から延々、実に四半世紀にわたってプロ写真術のフィルター操作のノウハウを蓄積して来たのに、それが一夜にして、オートホワイトバランスという「画期的な技術」で反古になったとまでは言わないにせよ、今までの苦労はあれは何であったのか?と言う段階にまで来てしまいました。
今までの価値観が完全に倒壊するような時代の到来。
これは何もベルリンの壁の崩壊とワールドトレードセンターの崩壊だけではありません。
デジカメの到来によって、それまで培われて来た、我々の大脳の中に蓄積されてきた、写真とか画像とかに関する感覚が非常な速度で変貌しているのです。
実際に我々の大脳中でその混乱が起きている事実の一例をあげてみましょう。
「写真を撮る」
これが今までの通常の言い方でした。
それに対して
「画像を取り込む」
という言い方は、これは新しい日本語の文脈です。
この取り込むという言葉は、キャプチャーするとか、スキャンするとか言う言葉でも言い換えられますが、この銀塩写真時代の「画像取り込み行為」と、デジタル時代の「写真撮影行為」との間だには、人類の今までの映像認識の歴史以来、その視神経の刺激への様式と認識の最大の変化がそこに起きていることは否定できません。
例えば、デジタルとアナログの視覚変化の最大の違いは、我々が日々見て居る新聞の上にも現れています。新聞という「紙の上に、なすくられたインキ」をニュースの実体であると思っていた時代は過ぎ去り、私たちはウエブ上の画像と文字とを既に何の疑問もなくそれが新聞であると思って読んでいます。しかもリアルタイムでそれを更新しながら、、、、。
ここで問題提起です。
四半世紀前にデジタルウオッチの登場時に、当時のアナログ時計は完全に駆逐されたかに見えましたが、スイスを中心にして機械式の時計は生き残り、あれから四半世紀も経過した今、機械式の時計は「高級ブランド」として以前にも増して人気を保っています。
同様のことが、どんどん生産中止になって行く現行の銀塩カメラに対して、もう一度、銀塩のスネッサンスを起こそうなどと、時代錯誤の夢物語を信じている私ではありません。
銀塩からデジタルへの移行は、これは時代を実用の基盤上で考えた場合、不可逆的なことです。
しかし、デジタルカメラが可能にした画像の実用的な部分は、デジカメに任せて、写真のある種の知的な部分、それが何であるのか分からないような感覚的な部分は、銀塩写真を媒介にした方がずっと魅力的であるという点を、クラシックカメラを通じて確認して行きたいのです。
私が肝に銘じて置きたいのは、明治時代の廃仏毀釈運動で貴重な文化が失われたように、現時点で文化財としての銀塩カメラの良さをちゃんと保存して置かないと、近い将来、誰も過去2世紀近く継続した銀塩の伝統が分からなくなってしまうということです。
私のようなシニア世代も、また最初から銀塩には縁のなかったジュニア世代も、フィルムを使うカメラ(まあ、入門としてライカでもコンタックスでも結構ですが)を手にして、古きよき時代のカメラの魅力を伝承して行く必要があります。
我々の手にしているクラシックカメラは、我々がそれと思っている段階それ以上に「文化財」となっているのです。
銀塩カメラを「楽しみ」として認識出来る時代。
それはそのバックボーンでデジタルカメラが日常の仕事をサポートしてくれているからに他なりません。
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