ライカに始まりライカに終わる · 連載コラム(市川泰憲)
第八回「ライカM9で軟調描写を楽しむ」
1. 歴史・機構・蘊蓄(エッセイ・解説)

ライカM9にMバヨネットマウントアダプターを介して
ヘクトール73mmF1.9を取り付け
ライカ用の軟調描写レンズ、つまりソフトフォーカスレンズとして最も著名なのは「THAMBAR 90mmF2.2」だろう。1935年に製造されたというが、きわめて製造本数が少なく、市場に現れても大変高価で、残念ながら僕の手元にタンバールはない。レンズとしては3群4枚構成だが、絞り開放で独特の軟調描写を示し、絞り込むことにより通常のレンズのように鮮鋭な描写になるという。またアクセサリーとしてソフト効果強調フィルターが付属している。このフィルターは、中央部が円形に鏡面メッキされており、装着することにより周辺部だけの光線を使うためにソフトフォーカスの度合いがさらに強くなるという独特の仕掛けをもっている。
とはいってもないものはないので、ここでは同じように軟調描写を示し、手元にある「ヘクトール73mmF1.9」とデジタルのライカM9で軟調描写を紹介してみよう。


●HEKTOR 73mmF1.9
『ヘクトール73mmF1.9』は1932年に発売され、当時ライツとしては初めての大口径レンズであった。レンズは3群6枚構成(図1)であるが、前後群が張り合わせの3枚構成で、凸凹凸となっていて、前群・後群の凸面が張り合わせでなくなるとタンバール90mmF2.2(図2)にかなり近いレンズタイプとなる。 ただしヘクトールのほうは、特別に軟調描写を意識して製造されたわけではないようで、あくまでも当時はF2を切った大口径レンズであり、その時代の広告によると、絞り込むことによりエルマー50mmF3.5に劣らぬ解像度を持つとされていた。
しかし実際は、現代の大口径レンズとはまったく異質な描写特性をもつレンズで、いまとなっては軟調描写レンズと位置づけても問題ないほどの個性あふれる描写をするというのが一般的な評価だ。その独特な描写と製造本数が多かったのだろうか、中古市場価格はかなりこなれているのでうれしい。
2. 操作方法・メンテナンス・修理のポイント
●ヘクトール73mmF1.9を使ってみた
さて軟調描写、つまりソフトフォーカス描写はどのような被写体がいいのだろうか。ベス単ならば、昔ながらの牧歌的な風景もいいけれど、ヘクトール73mmF1.9の代表作には写真家・故木村伊兵衛さんによる肖像写真のように人物の描写が最高なのだと思う。この点に関してはありがたいことに、モデルさんを独占して撮影させていただくチャンスに恵まれた(写真家・田原栄一さん感謝です)。
撮影は、最短撮影距離でF1.9という大口径の描写を見ることをまずは第一として行った。その結果が【作例1】である。ヘクトール73mmF1.9の最短撮影距離は約1mで、その条件で絞り開放となるとかなりきついはずだが、意外とM9の距離計はしっかりとピントを出してくれる。最短撮影距離で、ヘリコイドを回転させるというよりは、実際は固定したままわずかにカメラを前後させて、二重像が合致したときにシャッターを押すことになるが、撮影後の画像を拡大して見るとまずまずのピント確度だ。
画面を見ると、全体的にフレアっぽい画面だが、細部を拡大して見ると髪の毛1本、1本までしっかり解像して、唇や歯の質感もヌメっとなかなか感じよくでている。これがヘクトールの描写なのだろう。ただ、画面全体が色づいているのが気になる。これはカメラのホワイトバランスの問題でもあるが、ヘクトールが発売された1932年というと、当然のこととしてコーティング技術はなく、カラーフィルムはまったく一般的でなかった。
黒白の時代ならば、この色づきは、単なるフレアとして軟調描写の特徴そのものだったのだろう。ちなみにヘクトール73mmF1.9には、1932年に発売された着色粒子スクリーン法によるアグファカラーフィルムのための撮影用モザイクカラーフィルターを取り付けるためにレンズ鏡胴が回転しない直進ヘリコイド式のものもあったという。
ところで、このヘクトール73mmF1.9を絞って撮影したらどうなるのだろう。【作例2】は絞り開放F1.9で撮影、【作例3】はF6.3に絞って撮影した結果である。作例1よりも作例2のほうが深度が増して、画質も向上していることがわかるが、このあたりはレンズと絞り値の関係の定石どおりということができるが、フレアの発生は絞り込んでも消えない。デジタルの場合トーン補正すればかなりフレアっぽさは解消できるが、それでは描写としてのおもしろさが半減する。またヘクトール73mmF1.9は、後ボケが汚いといわれるがそのあたりを再現したのが【作例4】と【作例5】である。作例4は絞り開放F1.9でボケ味は確かに汚いが、作例5の絞りF6.3のように絞れば少しは解消するというわけだ。こちらもレンズ性能の定石どおりである。
●ヘクトール73mmF1.9は個性が光るライカレンズ
このヘクトール73mmF1.9を使って人物をアップで黒白フィルム撮影して黒白印画紙にプリントした結果は、素晴らしいものがある。以前機会があって、その写真を見たライカ使いで黒白写真派の写真家であるハービー・山口さんは、描写特性をたいそう気に入ってくれた。ただそれには、写真として何が写っているかが大切なことはいうまでもないが、それ以上にライカレンズらしからぬ独特の軟調描写に注目してもらえたのだと思っている。ヘクトール73mmF1.9の描写は、やはり絞っても限りなく軟調描写であることだと思っている。もちろん製造されてから80年近く経っているのだから個体差もあるかもしれないが、それを超えてデジタルであっても個性が光るライカレンズであることに間違いはない。
