カメラ温故知新
我が「リスボン物語」に持参するムービーカメラ
1. 歴史・機構・蘊蓄(エッセイ・解説)
ポルトガルのリスボンに最初に行ったのは1980年の秋で、その時、あの街の魅力に惹かれて、それ以来何度となく通っています。
リスボンを映画に撮影しようと思ったのは、たしかベンダースのリスボン物語がきっかけでした。
あの映画の面白さは映画の虚構世界の中に、各種の映像メデイアが出てくることにありました。
まず、映画の中の現実世界では35ミリのサイズで撮影されていますが、回想シーンは大昔の手回しの35ミリ映画撮影機でモノクロで撮られ、さらに主人公である「映画を作れなくなった映画監督」の個人的な異常な視覚体感のようなカットは当時のかなり画質が悪いホームビデオで撮影されています。
この場合、今のハンデイな家庭用ハイビジョンカメラでは画質が良すぎてダメなわけで、それぞれのメデイアの現実の相違感覚をくっきりと描き出すのには、あまり高級なビデオではダメです。
「リスボン物語」は、失踪した映画監督から一枚の絵はがきがベルリンの映画の録音技師の元に届き、彼が失踪監督を捜索するために、独逸、仏蘭西、西班牙と国境を車で越えて、葡萄牙に行くという、まあ風変わりなロードムービーです。
その影響で、最初は10年ほど前に、リスボンに16ミリのアトーンカメラを持参して、定宿である旧市街の中心地のロッシオ広場の角にあるホテルインターナショナルの3階の部屋から眼下のアウグスタ通りを撮影しました。
これは今でも貴重なフーテージです。劇映画なら「造り込み」をすることが可能ですが、ヨナス・メカスの一番弟子を自認していた(なにしろ、メカスの映画はウイーン時代に全部見て、リトアニアに憧れ、ニューヨークでご本人に遭遇し、東京の原美術館で再会したわけですから)自分は、「でたとこ勝負のシネマヴェリテ」が好きなわけで、ドラマよりもこの不思議な現実世界に展開してゆく、ドラマの不思議さの方に心を奪われているのです。
実際、リスボンで出会った過去四半世紀の人々の中で、一番忘れられない人に、ナガサキの原爆投下の1週間後に軍属としてテニアンからナガサキに渡って、被爆後の様子をつぶさに観察したカリフォルニアの絵描き、テイム・プラウエルさんが居ます。
彼との出会いはそこら中に書き散らしましたが、これはドラマを越えた真実のドラマと言えましょう。
最初に現場に入った亜米利加のジャーナリストはナガサキに原爆投下後1か月後であったわけですから、これは貴重な体験だし、60周年と言う今年にはやはり想い出す必要があります。
それで、今回は「我がリスボンロケ隊」を組織しました。
ただしワンマン運転なので、機材は16ミリカメラ。
それは良いのですけど、持参する機材で相変わらずもめているのです。
アリフレックスSRにしようか、それともそれよりも軽量なエクレールにしようか、それとも、別の同時録音をするのではないのだから、ゼンマイ仕掛けでフィルムを巻く、かの仏蘭西の映画撮影機の老舗(1897年!)のパテ社の16ミリカメラにしようか。
などなどで、そういう持参機材の選択に迷っている時が旅の前の一番楽しい一時です。
